その日、
つるるんとんのドアは、
少しだけ乱暴に開きました。
入ってきたのは常連客のタヌキ君。
なぜか眉間にしわを寄せています。
「もうね、
朝からなんですよ」
椅子に座る前から、
話は始まりました。
⸻
つる君が
クロスをかけ、
髪にハサミを入れると、
タヌキ君の言葉は
止まりません。
「僕の妻がガミガミガミ言ってくるんですよ!
言い方ってあるでしょ?」
「こっちは悪気がないのに」
「なんで、
あんな言い方するんですかね」
鏡の中の自分に向かって、
言っているようでもあり、
誰かに聞いてほしいだけのようでもありました。
つる君は、
相づちを打たず、
否定もせず、
ただ手を動かします。
髪が短くなり、カッコよくなるにつれて、
愚痴は
少しずつ、
同じところを回り始めました。
「昔は、
こんな言い合い、
しなかったんですけどね」
その一言だけが、
少しだけ
違う響きを持っていました。
⸻
カットが終わり、
るんちゃんに代わります。
お顔剃りが始まると、
タヌキ君の声は
自然と小さくなりました。
刃が肌をなぞるたび、
呼吸が整っていきます。
「ほんとにいつも忙しい中、よくしてくれてるんですけどね」
誰に言うでもなく、
自分に言い聞かせるような声でした。
お顔の毛穴洗浄。
温かい蒸気に包まれて、
タヌキ君は、
ふっと肩の力を抜きます。
「毎朝、
文句言いながらも、
ちゃんと起こしてくれるんですよ」
「忘れ物したら、
玄関まで走ってきたりして」
それはもう、
愚痴ではありませんでした。
「……まあ、
怒るってことは、
ちゃんと見てくれてるってこと、
なんでしょうけど」
⸻
極みヘッドスパ。
指が頭を包み込むころ、
タヌキ君は、
ほとんど目を閉じています。
「毎朝、弁当作ってくれるしね……
結局、いい嫁さんなんですよね」
少し照れたように。
そして、いつの間にかウトウト。何か楽しい夢をみているようです。
施術がすべて終わり、
鏡に映ったタヌキ君は、来たときより、
ずっと穏やかな顔。
「なんだか、
気分が軽くなりました」
「……なんか」
タヌキ君が急にソワソワしだしました。
「どうしたました?」
つる君がタヌキ君にたずねました。
「早く、
奥さんの顔、見たくなりました」
〈つる君とるんちゃんはズッコケたw〉
冗談のようで、
でも、
とても正直な言葉でした。
⸻
つる君とるんちゃんとロナは、
何も言わず、
いつも通り見送りました。
タヌキ君は
忘れかけていた
やさしい気持ちを
思い出し
いつもより
早足で帰っていきました。
〈おわり〉