ある雨あがりの午後。
つるるんとんの扉が、ゆっくりと開きました。
入ってきたのは――
大きく立派な角をもつ、鹿のお父さん。
背筋はまっすぐ。
スーツもきちんと整っていて、隙がありません。
けれどその目の奥は、
どこか、ずっと遠くを見ていました。
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「フルコースでお願いします。」
低く、静かな声。
つる君は、やわらかくうなずきます。
「今日は、どんなふうに整えましょう?」
鹿のお父さんは、少しだけ間をあけて言いました。
「……“ちゃんとした父親”に見えるように。」
その言葉は、
まるで鎧のように硬く、重たく響きました。
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ヘアカットが始まります。
立派な角の根元には、
いつも力が入っています。
つる君は気づいていました。
このお父さんは、
ずっと“頼られる側”でいようとしていることを。
ハサミが静かに動きます。
「お一人で子育てを?」
「ええ。弱音は吐けませんから。」
即答でした。
けれど、その言葉のあとに、
ほんの小さなため息が混じりました。
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るんちゃんの
お顔剃りと毛穴洗浄が始まります。
あたたかい泡が、
鹿のお父さんの頬を包み込みます。
「強いお父さんでいなきゃ、って
思ってらっしゃるんですね。」
るんちゃんの声は、
そっと雪のように降りました。
鹿のお父さんは、目を閉じたまま
「娘に心配をかけたくないんです。
母親がいない分、完璧でいなきゃと。」
泡の下で、
頬の筋肉が、わずかに震えました。
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極みヘッドスパ。
るんちゃんの指が、
角の付け根の奥までやさしくほぐしていきます。
そこは、
いつも無意識に力を入れている場所。
「……頼っても、いいんですよ。」
その言葉に、
鹿のお父さんの呼吸が崩れました。
「頼ったら……
崩れそうで。」
初めて、弱い声がこぼれました。
そのとき。
いつの間にか足元いた
愛犬ロナが、ころんと転がりました。
お腹を見せて、
完全無防備。
そのあまりにも無防備な愛犬ロナの姿をみて
るんちゃんも鹿のお父さんも笑ってしまいました。
“こんなふうに、力を抜いても大丈夫だよ”
そんなふうに見えました。
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施術が終わり、鏡の前。
角はそのまま、立派です。
けれど、
その根元の力みは消えていました。
表情が、少しやわらいでいます。
鹿のお父さんは、鏡を見つめながら言いました。
「強がるのは……
娘のためだと思っていました。
でも、
本当は自分が怖かっただけかもしれません。」
るんちゃんは、うなずきます。
「強さは、鎧じゃないですからね。」
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帰り際。
鹿のお父さんは、
スマートフォンを取り出しました。
娘に、短いメッセージを打ちます。
“今日、ちょっと疲れてる。
一緒にごはん作ってくれる?”
送信。
ほんの小さな勇気。
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扉を出たとき、
鹿のお父さんの角は、もう戦う形をしていませんでした。
風を受け止める、
やわらかな枝のようでした。
強がりの鎧は、
全部はずれたわけではありません。
でも、
少しだけ軽くなっていました。
つるるんとんには、
髪を整えるだけでなく、
角の奥にしまいこんだ声を
ほどく時間があるのです。
その日もまた、
ひとつの背中が、
ほんの少しだけ
軽くなって帰っていきました。
〈おわり〉