少し雨が降る夕方。
つるるんとんの扉が、
からん… と鳴りました。
入ってきたのは、
大きな甲羅を背負った かめ君。
肩は落ちて、
ため息ばかり。
⸻
つる君が
やさしく声をかけました。
「いらっしゃい。今日はどうされますか?」
かめ君は
少し疲れた声で言いました。
「……全部、お願いします。」
ヘアカット。
お顔剃り。
お顔の毛穴洗浄。
そして、極みヘッドスパ。
つるるんとんの
いつもの順番です。
⸻
まずは ヘアカット。
つる君のハサミが
静かに動きます。
ちょき…ちょき…
しばらくして
つる君が聞きました。
「どうされました?」
「先程からため息ばかりつかれています。」
⸻
かめ君は
鏡を見ながら言いました。
「ぼく、漫画家なんです。」
少し間があきました。
「……いや。」
「漫画家でした。」
⸻
「売れなくて。」
「家計は火の車。」
「奥さんからも言われました。」
かめ君は
小さく笑いました。
「そろそろ
ちゃんと働いてほしいって。」
ハサミの音だけが
店に響きます。
「だから今日」
「決めたんです。」
「漫画家、辞めるんです。」
つる君は何も言わなかった。
⸻
次は るんちゃんのお顔剃り。
るんちゃんが
温かいタオルを
そっと乗せました。
かめ君が
ぽつりと言いました。
「息子がいるんです。」
「亀吉って言います。」
るんちゃんが
静かに聞きます。
「何歳ですか?」
「八歳です。」
少し間があきました。
「今日」
「漫画を辞めるって
伝えました。」
かめ君は
小さく笑いました。
「そしたら」
「大泣きされました。」
「なんでやめるの!って。」
「ぼく、パパの漫画
大好きなのにって。」
かめ君は
目を閉じました。
「家にいられなくなって」
「逃げてきました。」
⸻
お顔剃りが終わり、
次は お顔の毛穴洗浄。
細かな泡が
静かに顔を包みます。
かめ君は
つぶやきました。
「でも」
「家族を苦しめる夢は」
「夢じゃないですよね。」
泡がゆっくり
流れていきます。
⸻
最後は
極みヘッドスパ。
るんちゃんの手が
ゆっくり頭をほぐします。
静かな時間。
しばらくして
るんちゃんが
やさしく聞きました。
「漫画は」
「本当に
やめたいんですか?」
かめ君は
少し考えました。
「……いいえ。」
「でも」
「家族を守らないと。」
るんちゃんは
静かに言いました。
「じゃあ」
「守りながら」
「続けるのはいかがですか?」
かめ君は
目を開きました。
「え?」
「昼は働く。」
「夜は描く。」
「夢って」
「仕事じゃなくても」
「続けていいと思います。」
⸻
ヘッドスパが終わりました。
鏡の中のかめ君。
さっぱりした髪。
そして
何か吹っ切れるたような
明るくなった目。
帰り際。
つる君がかめ君に
「どんな漫画を書かれているんですか?」
かめ君は笑顔で甲羅から
スケッチブックを
取り出しました。
つる君とるんちゃんは
つる君の漫画に興味津々。
かめ君がスケッチブックを
広げた瞬間、
はさまっていた
小さな紙がひらひらと
床に落ちました。
「ん?」
かめ君はスケッチブックから
落ちた紙をひろいあげると、
そこには
むすこの亀吉の字。
「パパのまんがだいすき」
その下に亀吉が描いた絵。
「ヒーローのパパ。」
かめ君の目から
ぽろりと涙が落ちました。
⸻
つるるんとんの外。
雨はいつのまにか
止んでいました。
かめ君はゆっくり
歩きながらつぶやきました。
「昼は働こう。」
「でも」
スケッチブックを
ぎゅっと抱きしめます。
「夜は漫画家だ。」
かめ君の漫画には
一人の読者がいました。
そしてその読者は
家で続きを
待っていました。
〈おわり〉